アートをよもう

村上隆:芸術新潮2012年5月号を読んで

考えてみてほしい。

もし村上隆がいなかったら、21世紀の日本のアートシーンがどれほど退屈なものになっただろうかと。

そこには名手も才人も、あるいは偉大な作家すら欠けていなかったかもしれないが、アートと世界のありように、我と我が身を引き裂くように怒り狂い、ノーを言い続けたのは、ただひとり村上隆だけだった。

「オタク文化の搾取者」「商業主義者」「自虐的ニヒリスト」――村上に向けられるこうした批判は、ステレオタイプではあっても、事実無根というわけではない。

かといって村上がこんな一面的な批判の範疇に収まりきる人間がといえば、それもありえない話だ。

今も全力疾走中のアートの阿羅漢、この矛盾の塊のような人物を紹介しよう。

村上史上最大級の展覧会

村上史上最大級の展覧会がカタールの首都ドーハで開催されることになったのは、カタール美術館庁の長マヤッサ王女が村上ファンだったため。

王女は米デューク大学に学んだ才媛で、現代美術にも造詣が深い。

ヴェルサイユ宮殿を舞台に開催された「MURAKAMI VERSAILLES」が、実はカタール政府の資金で運営された経緯もある。

以前、カタールの隣のドバイを訪れたとき、町にLEDの電飾が溢れていて、中東の人はきっとこういうのが好きなんだなと思ったんです。

村上は狩野派みたいな絵師集団を現代に蘇らせようとしているため、クライアントが喜んでくれることがゴールだと思っていた。

アメリカに対しては《Hiropon》や《My Lonesomen Cowboy》で「アートはポルノだ」ってやったわけだ。

もちろん今回はイスラム圏だから、エロはいっさいダメ。

そこで、マヤッサ王女の意図をまず考える。

それはカタール国民に現代美術の啓蒙をすることだった。

それをわかりやすくイラストレーションすることが村上の役割なんだと。

でもそうこうしてるうちに3・11があった。

今度は震災という大きなカタストロフに襲われた先進国の芸術家が今何を考えているのかを素直に出すことが、王女さまの望みじゃないかと思ったという。

中東へと飛んだおなじみのキャラと異形の羅漢たち、カタールの人たちは、彼らから何を受け取ったのだろうか。

等身大フィギュアを制作するプロジェクト

右《My Lonesome CowBoy》、左《Hiropon》

等身大フィギュアを制作するプロジェクトは、ある夏のコミケで入手したとあるフロッピー同人誌で見つけた、巨乳キャラがネタ元だ。

その絵は、以上に乳房が大きい少女が、やはり異常に大きい両乳首を自分で摘んだ先から数滴、ミルクが迸(ほとばし)っている半身像だった。

それを走っているかのような全身像に変え、しかもお乳をジャンプロープみたいにピューッと伸ばしたわけだ。

DOB君がカワイイ文化のアイコンだとしたら、《Hiropon》はオタクのためのセックス・アイコンの歪んだ形。

ただ、そん段階では、これを立体にしようとなどとは夢にも思っていなかった。

それがアメリカ留学中の1995年に、《Hiropon》の図柄のTシャツを着ていたら、ギャラリストのハドソン氏にえらく気に入られて、立体にしてみたらどうだという話になった。

その頃、NYでは身体芸術的な表現がトレンドで、中でも注目を集めていたのはボブ・フラナガン(1952-96)のパフォーマンスだった。

生まれてこの方、注射を打たない日はなかったような虚弱体質の人間が、肉体の限界を追求する表現で、亡くなる数日前にニュー・ミュージアムで開催された個展は大評判。

そうした怪物化する身体への関心と、オタクカルチャーが生んだ巨乳少女をリンクさせることで、鳴かず飛ばずからの一発逆転を狙うような作品を作る、これがその時点での意図だっだ。

実際の制作は、フィギュア業界最大手の海洋堂を紹介されたところから始まった。

かつてアニメオタクだったことのある村上隆はオタクのことは判っているつもりだったのですが、それは全く甘かった。

そもそも等身大の美少女フィギュアは今でこそ当たり前の存在ながら、当時のオタクにとっては重大なタブー。

ですから、最終的にオタクの祭典・ワンダーフェスティバルで、《S.M.P.Ko2》を中心にした発表を行い、オタクvsアートのプレゼンができた時は感無量だった。

《五百羅漢図》

そして、最後は《五百羅漢図》です。

挑戦のきっかけはもちろん東日本大震災。

日本国家の有事を前にしたわれわれ国民の無力感がテーマになっているわけですが、そんな無力感でも人はいきていかなければならない。

数百年前に震災に遭ったり、戦国時代の戦闘で疲弊しきった大衆はきっとみんなそういった気持ちだったのだろうと想像しますし、その無力感からの救いを宗教的な説法に求めつつ生きていたはずだ、と推測。

困難な状況が出現し、それに立ち向かってゆくための新たな説法が急務である、と、そんなことを強く感じ、描いた作品です。

そしてこの作品は、僕を評価できない一群の美術業界人たちには、僕の絵描きとしての技術的な部分を、偽物だと思っている輩が多い。

そういう奴らに、ふざけるな! 

俺の技術力見てみろ! 

100メートルの画面を支配し切るのがどんだけ難しいと思っているんだ! 

と、いう思いもあった。